私は読書する時・勉強する時、よくテレビやラジオをつけっぱなしにします(あるいは全部同時につけていることもあります)。環境保護関係の方には電気の無駄使いと言われてしまうかも知れませんがコレばっかりはもう昔からの癖なので仕方ありません。集中する時には何か「音」この習慣がある程度身についてしまっているのです。
両親などは「テレビを消さんね。集中出来んやろうもん。」*1とよく注意されました。が・・・しかしです。コレが意外に私の中では集中できているのです。特に読書や文章を書くという主に文字に関する作業を行なう際には全然効率が変わってくるのです。読書では1.2倍(当社比)・文章の思い浮かぶ量も音楽を聞いている時は約1.5倍(当社比)です。逆に静かな空間におかれると段々と不安になってきて体を動かすか瞑想(座禅)*2でもしていないと不安になってくるという有様です。
その理由が何か断言できるわけではないのですが・・・。多分「寂しい」からではないかと思います。多くの場合、空間に人が居ると知覚する際に使う感覚は「視覚」でしょう。しかし、上記の作業(読書や文章記述)を行なっている際にはその感覚は非常に狭い空間に限定されており、周辺空間の知覚には割くことが出来ない。それゆえ「聴覚」で「人」あるいは「他人」が居るということを知覚して(あるいは音楽の場合は「錯覚」させて)満足しているのではないかと思うのです。
まあ、本当に集中してしまうと周辺でどんな音が聞こえようが反応しなくなることもありますので、多分導入時点での必要な状況なんだと思いますが・・・。

いや、こんなことを突然思い立ったようにここに書く必要はないんですが・・・。自分の中で非常に気になる「自分のこと」なので。
繁華街なんかに行ってぼんやりするのが好きなんですが、やっぱりそういうところでも「視覚」よりも「聴覚」を使っているような気がします。何の根拠もないですが人が居る時の雑然とした「音」と人が居なくなった時の無機質で薄ら寒い「音」を聞き比べていることが多かったようなので・・・。

ちなみに自分は別に「絶対音感」などはもっていないので。多分に文系的な「音」の感覚なんではなかろうかと考えていますが・・・。

*1:私も福岡に居る時は博多弁になります。

*2:多分、瞑想・座禅の考え方を間違っていると思いますが・・・。