正義=justice?

チェス元世界王者:米国務省アイスランドの対応に不快感http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/america/news/20050323k0000e030031000c.html
 この事件、大分前から問題になっていて、将棋の羽生氏などが在留許可の嘆願などを出しておられたことで日本政府などの対応の悪さなどが指摘されるきっかけにはなっていたと思うのですが。アメリカに関して言えば、法律のそもそもの怪しさをおいておけば、今回の対応そのものには特段何の問題もないといえます。自国の法が破られ、責任の追及から逃れるために国外に出た人間の身柄の引渡し請求をする。日本とアメリカの間には犯罪者引渡し条約(日米犯罪者引渡条約)があるのだから当然といえば当然です。ただ、フィッシャー氏の行動は同条約の「第4条不引渡犯罪1項の1」政治犯罪に近いものかもしれませんが、それはおいておく。

 この事件のことで気になったというよりも、問題はこの記事で気になったということなのですが。上記の「毎日新聞」の記事の中でアメリ国務省の副報道官が、

失望した。フィッシャー氏は正義からの逃亡者であり、米連邦政府の逮捕状が出ている

と述べたとされている部分だ。
 これはもしかしたら正確な原文に当たると、あるいは法律的な用語の使い方として「正義」があるのかもしれないが、もし一般的な「正義」として使っているのであるならばやはり個人的には違和感は拭えない。正義は法の根拠になりうるけれども、法は正義の根拠になりえないことに、法の運用者が自覚的でない印象を受けるからです。
 アメリカの法と正義に関する意識で、特に印象に残ったのが、つい先日「ディスカバリーチャンネル」の「進化するエンターテインメント」「ゲーム・ビジネス」(http://japan.discovery.com/episode/epiintro.php?id1416084&id2000000)で見た「ジャッジ・ドレッド」のアメリカでの人気です。上記の番組においては、特に「ジャッジ・ドレッド」のストーリーをどうこうする訳でもなく。ゲーム化するという話と3Dゲームへの移植問題について触れているだけだったのですが。「ジャッジ・ドレッド」が、アメリカにおいて人気のある様が描かれていることへの凄まじい違和感というものと、「法」と「正義」に対する違和感とが奇妙に一致したのです。

 日本において「ジャッジ・ドレッド」と言えばシルヴェスター・スタローンの演じた映画の「ジャッジ・ドレッド」を思い浮かべる方が多いと思います。しかし、私は「警察官、裁判官、陪審員、そして法の執行人までも兼ねた」存在に対して「不安」と「理不尽さ」を感じてなりません。その辺りは「マイノリティレポート」や「リベリオン」などと似たようなものなのかも知れませんが*1。科学的に「絶対」とか「間違いない」ということに不安を感じてならないのです。その、中途半端な科学、あるいは真実万能論に対する、態度の違いは狂牛病問題に対する、アメリカと日本の態度の違いに出ているのではないかと思うのです。

 正義の問題がいつの間にか、科学万能主義などの話に移ってしまってあれなんですが…。思いつくままに書いているので許してください…。
 とりあえず言いたかったことは、副報道官の「正義」の使い方に違和感を感じたということです。「人権擁護法案」とも全く関係がないとは思っていません。

*1:この二つもアメリカ映画ですが…。