ではないですが、九条の会

 ちなみに、「九条の会」などについては最初の問題意識と多少ずれがあるので記述を避けたが。宗教者がなぜ、「九条の会」に入るのか、そしてその活動が何故、オルグ形式というよりも「細胞」形式をとるのかという部分に関しては。

 現在の日本の現実の政治状況は、実は国際的見て非常に「右傾化」しているということです。ヨーロッパで言えば、ハイダーなどにあたる政治家が首都の知事になり、それが80パーセント近い支持を受けていると言う事実や、到底自民党の主流になるとは思われていなかった「旧福田派」が政権中枢を担っているという現状は、日本政治に対して一定の知識を持つ層(もしかすると外国人で、知日派であればあるほど。)であればその事実が持つ問題は大きいということを自覚させられるところであるだろうと思います。

 その上で、戦前宗教者が「大日本帝国」に対してどう協力していったかは別段説明の必要はないでしょう。そこで、出てくるのが、今回の「人権擁護法案」でも、なぜか引き合いに出された。マルチン・ニーメラーの、「ナチス共産主義者を弾圧した時 私は不安に駆られたが自分は共産主義者でなかったので、何の行動も起こさなかった。その次、ナチス社会主義者を弾圧した 私はさらに不安を感じたが自分は社会主義者ではないので何の抗議もしなかった。それからナチスは学生、新聞、ユダヤ人と順次弾圧の輪を広げていきそのたびに私の不安は増大したがそれでも私は行動に出なかった、ある日ついにナチスは教会を弾圧してきた、そして私は牧師だった。だから行動に立ち上がったがその時はすべてがあまりにも遅かった」という言葉です。
 九条の会が、大江健三郎氏や小田実氏を含めて共産党中心の活動である事は間違いありません。まあ、この問題で一番肝なのは、この「共産党中心」なのですが。この言葉は、共産党だけがやっているのではないし共産党がやっているのではないという事が言外に含まれています。それゆえに、九条の保持という目的の元に主張が近い、社民党支持層や共産党と本来対立してしまう宗教界と協力できる体制を作り、まず何よりも改正の国民投票における多数派形成が目的であると考えられます。(そこまで出来るのならば、党名の変更をしろよと思いますが…。やはり、社民党の凄まじいまでの党勢退潮は共産党首脳部にも影響を与えているのかもしれません。)そういう意味では護憲派の焦りとも言えますが…。ちなみに、私は九条護憲派ですが九条の会には入っていません。