ダブルスタンダード(3)

 ここで論じているのは「チベット」問題でも、「人権」の内容でも、「レイシズム」についてでも、「(言論における相対的位置の意味での)左右」でもありません。
 題材としては扱っていますが、メインテーマは「ダブルスタンダード」です。

2008-03-24 - 小烏丸の日記(■[ニュース]ダブルスタンダード(1))
2008-03-25 - 小烏丸の日記(■[ニュース]ダブルスタンダード(2))


 最後に
 右派の中の「レイシズム」的発言をする人々が、「人権」の議論を持ち出すとダブルスタンダードにならざるを得なくなるという話を(2)においてしたのだが。単純にそうも言えないのではないかという危惧がどうしてもつきまとう。
 つまり、そうした発言をする人々のうちにおいては、「国内において人権を抑圧すること」と「中国における人権抑圧を批判すること」が無矛盾なのではないかという疑問である。その矛盾に自覚的な人に対して「お前の論理はダブルスタンダードではないか」という批判は意味を持つ。しかし、そこに矛盾が無いと思っている人に対して「ダブルスタンダード」だという批判は意味をなさない可能性が高い。


 その場合、やはり「人権」とはなにか「差別」とは何かについて議論、あるいは共有可能な範囲を探求せざるを得ないであろう。
註として書いたのだが入らなかった…

ここを念頭に書いたと明記されていないので、それこそ「相手不在」かもしれないが。あえて少し反論する。
念を押したつもりであるが、id:saboten2008氏が仰っている「処々で散見されるような、思慮と語彙の乏しい俄か国士の諸君」を念頭においているのであり。右翼一般について論じていない。「相手不在の私的願望、即ち寝言に等しい戯言を以て」という批判を、自らのその後の言で実質否定されている…。これ以外の部分に関しては氏に対して反論が有意義なものとならないと考える。しかし、一点だけ述べるならば、氏が指摘されるような議論は私はそもそもしていない。ただ「当該民族(地域)を批難したくなるのが自然な感情であろう。このような人間的感情の発露」に関してだけは、それが言論として現れればそれは明らかに「差別」であろうと考えるし、それに対しての批判はなされるべきと考える。