自己否定に嬉々として従事する人達

呼びかけ人の一人である谷川秀善参院議員は「ねじれ国会でにっちもさっちも行かなくなった。次の選挙で与党が3分の2を取ることは難しい。法案は1本も通らなくなる」と一院制論議の必要性を強調。

 参議院不要論は簡単には2つの論拠に基づいている。
一つは、衆議院参議院が割れることから生じる、政治遅滞化を批判する観点からの不要論。
二つ目は、衆議院参議院が同じ結論をくだすことを批判する観点からの不要論。俗に言う「カーボンコピー論」である。
 議員総数削減論も参議院不要論に類するものと扱うことも出来るが、「議員を減らす=参議院をなくす」ではないこと、衆議院議員の削減によってもその目的は果たされる。このことから、この議論を、参議院不要論と結びつける議論は為にする議論であると考える。


 上記、二つの参議院不要論は、相反するものとなっている。衆議院参議院が違う結論を下すのであれば、参議院衆議院カーボンコピーではないことになるし、その逆もまたしかりである。ある意味で、どのような状況でも利用可能ということが出来るが、同時に意味のない批判であるようにしか思えない。


 なぜ二院制をとっているのか、二院制が機能していないとすればなぜなのか。そうした問題を考えずに、与党による議会運営が難しくなることを理由に、二院制の批判をするというのはあまりに利己的であり、短絡的に過ぎる。しかもそれを、批判されている当事者の参議院議員までもがする。自らの所属する院の存在意義も、問題があるとしても改善する意思もない…。あまりの不甲斐なさに呆然としてしまう。


 「ねじれ国会」とマスコミは否定的に使用するが、二院制が久しぶりに正常に機能した姿なのだ。あとはこういった状況下で、如何にして(有意義な)議論を行わしめるかを模索しなければならない。議論の論題(テーマ)設定能力は、主に政党にあるといえるが、それが議題として設定されたと多くの人々に認識せしめるのはメディアの仕事である。また、現代にはマスコミにも議題設定能力は備わっている。議論が盛り上がらない、議論が深まらない原因は政党・議員だけにあるのではない、もしかするとまず何よりもメディアに原因があるかもしれないのである。