個人的には不満

7月7日金曜日七夕の夜
6時半から東京の日本教育会館で開かれた、「「平和への結集」をめざす市民の風 」の集会に参加してきました。
で、まあ基本趣旨である護憲・平和実現のための共同候補(統一候補)実現の努力をという会自体の趣旨には賛成なのですが、気になった点がいくつか・・・。
(長いので興味のある方だけお読みください)

私は、当選可能性の薄い候補者を立てた政党が、政策協議の上で、自党の候補者よりも当選可能性の高い候補者の当選可能性を高めるために戦略的に撤退、そしてその候補者を応援することは可能なjことであるし、常に政党の方策のひとつとして考慮に入れていくべきことだと考えています。しかしながら、日本の政党は、政策・イデオロギーともに近い政党同士が、政策距離が離れた政党とよりも仲が悪いということがしばしばあ
ったり、特定の政党は連携対象からは完全に疎外されるというような状況にあったため、戦略的撤退と相互支援のような政党政治下でとられるべき戦略的党行動が一部の
政党では行われなかったことが指摘できます。

その上で、これまで野党共闘が実現するのは、どちらの政党にも所属しない無所属候補(有名人が多い)を、推薦という形で応援するという形式が多く取られて来ています。その結果というべきかそれゆえというべきか、野党共同候補は国政では数えるほどしか例が無く、その多くは地方自治体の首長に多く見受けられます。

私はこのこと自体は、決して悪いことであるとは思いません。
しかし、一部の人々はこの事実を持って、自治体では野党共闘が実現しているのに、国政レベルで野党共闘が実現できないのは政党がエゴを通しているからだという主張を行っている方々が多いことはかなり問題のあることではなかろうかと思っています。そういう人々は、往々にして国政レベルでも(知名度のある市民派の)無所属候補を立てて、野党共闘で応援すれば当選可能性があがるではないかと考えていると思われます。(実際、私が参加した上記の集会でもそういう意見の方が多かったかのように思います。)

ですが、本当にそれでよいのでしょうか?
私はいくつかの点でそれは間違っているのではないかと思います。

まず第一点として、自治体首長と国会議員との違いです。自治体首長、特に県知事や政令指定都市の市長ともなればその権限はしばしば国会議員をもしのぐといわれます。専権事項が多く、大統領的位置づけなのであるから当然といえば当然です。しかし、同時に首長は議会からの監視を常時受けます。無所属という形で通った首長にしても、実質は推薦政党が議会与党という形になり、その運営を助けなければ自治体運営はうまく行きません。(無所属、与党共闘で成立した首長が、少数与党議会で自治体運営に苦労するのはよくあることです。その結果、首長政策的に多数党と妥協を繰り返し。結果、再びオール与党というのもありがちなことだと思いますが。誰とはいいませんよ、誰とは・・・)
ただし、こういう形で推薦政党と無所属候補としての首長の間に公的制度を介した統制が働いているということは確実にいえます。
では国会議員の場合はどうでしょう?国会議員の場合は、次の選挙まで基本的に公的な制度を介した統制は働きません。無所属で市民はとして出た場合、議員の周辺の市民運動側や議員本人は政党の制約を嫌い、議会内では出来るだけ政党との距離をおこうとします。選挙時の政党との政策協議が、少なければ少ないほど、それはより可能になります。

そうなると、政策協議に無い案件に関して、その議員が選挙で支持した政党が、絶対に通したくないと思っていてもなんら影響を与えられない可能性があります。(当然といえば当然ですが)政策協議が包括性を持たない限り(包括性を持たせると具体性を失う恐れが大きくなるが・・・)、推薦した政党にとってマイナスの結果となる案件に対する、無所属候補の自由な振る舞いを推薦した政党はとめることが難しいのです。無所属市民派候補を野党共闘で送ることに二の足を踏むのはある種当然だと思えます。(政党間でのやり取りであれば、国対間であれなんであれ、その手の協議を行った上で、党議拘束をかけることは十分可能)

2つ目は仁義の通し方の問題です。集会の中では、「なかなか共闘が実現しないのですが、どうしたら実現できるのでしょうか?」という問いに、実際に野党共闘で当選した国立市の上原公子市長が答えていたのですが。「政党色を出さずに、実際に出来る仕事をいろいろな政党とやることが重要だと」いうようなことを述べていました。そしてその結果、「民主党が候補は立てたが、自党候補を積極的に応援しないという戦略をとってくれた」と語っていました。確かに、それは戦略の一端としてはありだと思います。しかし、それは民主党支持者に対して、あるいは民主党から立った候補者に対してあまりに仁義を失していないかと思うのです。市民派で金が無く選挙カーが無いため、共産党から選挙カーを借りたが「党の文字を塗りつぶして」つかったとも話していました。確かに戦略として党派色を薄めて、無所属、無党派で市民候補だというのはありだと思いますがやはりそれは、あまりに無神経ではないか、仁義を失しているではないかと思います。

佐高信氏が、「無所属、無党派というけど・・・」と言っておられたのが唯一の救いか・・・
生物と干物の例えはいただけなかったのだけれども・・・(市民候補といって持ち上げる、大学の先生とかがいるがそれは干物の見方じゃないのかというような言い方・・・少々微妙)

とりあえず、1000人近く集まったのはやはり政党の力であることは間違いない。
政治参加と不参加のグラデーションが変に両端に偏っているということなのか?
私は、やはり政党という組織の重要性はきちんと評価していくべきと考えているのだが・・・そうでなければ、既存の政党政治は駄目だから、直接民主主義みたいな話になってしまう。市民自治とデリバレイティブデモクラシーの考え方はそこに立脚しているのかもしれないが、私のように間接民主主義の価値を評価できろとしたうえで、現在そこが問題を抱えていると考える人間としては、現状の改善は既存の制度から立脚して考えるべきだと思うのだが・・・(制度変更の可能性として一段飛ばしに直接化なんてことはありえないだろうと考えるが・・・)