靖国 YASUKUNI

渋谷 シネアミューズにて18時45分からの最終回を鑑賞
本日は1日で映画の日のため千円。
 当初は16時分を鑑賞予定であったが、その時間分は予想外の満席。18時45分分も、その時点ですでに30人位の順番の整理券であった…。本日の最終回分も満席、年配の方々が一定数いるのはともかく、比較的若い年代のカップルが入っているのは驚き。どういう人々で、どういう感想を持ったのか知りたかったが…。


以下、内容について(出来るだけネタバレしないようにします)


 あるラジオで、パーソナリティがこの映画を「ディスコミュニケーション(discommunication)の映画だ」と語っていたとshouichi氏から紹介された。その評価は言いえて妙であろう。以下、私が感じたこの映画の持つディスコミュニケーションを軸にこの映画を論じたい。


 まず第一のディスコミュニケーションは、監督と刀匠の刈谷氏との間のディスコミュニケーションである。基本、二人の間の会話はかみ合わない。監督の必ずしもうまいと言えない日本語、(多分)高齢ゆえの刈谷氏の衰えた聴覚、(これもまた高齢ゆえの要素も強いと思うが)刈谷氏のかなり方言の強い発言、そしてなによりも双方の長い沈黙。二人の間に、最後まで会話は成立していない(ように見える)。


 第二のディスコミュニケーションは、「劇場」としての靖国神社に登場する様々な人々の間のディスコミュニケーションである。8月15日に、軍服を着た靖国参拝者の人々が行うデモンストレーションは、そもそも外部とのコミュニケーションを求めていないのかもしれない。小泉元首相による靖国神社参拝をめぐる会見では、彼はコミュニケーションを拒否する姿勢を明言する。靖国神社内のシーンで、数少ない成功しているコミュニケーションの例として、小泉(元)首相参拝支持を主張しに来たというアメリカ人の男性と、年配の幾人かの英語の出来る日本人男性との会話がある。しかし、この成功した(かに見える)コミュニケーションも、アメリカ人が星条旗を掲げていたことから、一部の参拝者に「毛唐は出て行け」「その国旗(星条旗)破いちまえ」という声を前に、警察による指導の下、靖国神社からの退出を余儀なくされる。「君が代」合唱の場に、日本の侵略戦争は批判されなければならないと大声を上げて乱入した若い男性二人(左翼か)の、主張もあの場ではディスコミュニケーションの一例となっていよう。


 第三のディスコミュニケーションは、本作品と観客(一般化できないが、少なくとも「私」は)との間のディスコミュニケーションである。そもそもこの映画をドキュメンタリーとして、問題意識が明確に打ち出されるのではないかと予想していた。しかし、パンフレットの土本典昭氏と監督の李櫻氏との対談において、土本氏が言うように、この『靖国』は「(対象を)批判的にくっきり見せていくことを、まったくしていない。」作品となっている。ある程度、靖国神社について知っている人にとっては、そこで示される情報は特段新奇なものではないし、8月15日に靖国神社を訪れればもっと生々しい形で「靖国」という劇場で起こる群像劇を目にすることが出来る。*1


 第四のディスコミュニケーションは、この映画の批判者と映画*2との間のディスコミュニケーションである。この映画は特段に「靖国」あるいは、その周辺にあるなにものをも「批判的にくっきり見せていくことを、まったくしていない。」
そうであるがゆえに、私などからすると踏む込み不足とすら感じられたわけである。しかし、見ないで批判をしていた一部右翼はともかくとして、見た上で批判していた右翼は何を問題にしていたのか、いまだに皆目理解できない。この作品で、靖国参拝者を馬鹿にしている点はないし、刈谷氏を批判的に映し出した画面も刈谷氏を糾弾するような質問も出てこない。靖国神社遊就館のシーンも、ただ展示の外観を写し、館内で流れる放送をそのままに流しているだけだ。


 第四のディスコミュニケーションからくる当然の帰結といえるかもしれないが、第五のディスコミュニケーションは「表現の自由」をめぐる、放映反対派と表現の自由擁護派の議論である。これは以前にも紹介しているので省略するが、両者の議論はまったくかみ合うことはなかった。


 こうした5つのディスコミュニケーションを映し出したという点で、この私の目からは凡庸な出来に見えてしまうドキュメンタリーとしての本作品は、優秀な作品に変貌を遂げる。靖国神社の神体を「刀」*3に対して、この映画の神体は「鏡」であるとしている。この自己定義はある意味で成功しているように思う。もし、本映画の批判者である右翼が、この映画において右翼が侮辱されたと感じたならば、それは自分たちの行動をどこかばかげたものと捉えているか、靖国に参拝する右翼を本心では冷笑して見ているからではないだろうか。私は「中国人は出て行け」と壊れたレコーダーのごとく繰り返す男性に対して冷めた目で見てしまうことは別にして、靖国参拝者に対しては信仰という観点から理解できる点が多々あった。


 上坂冬子氏が日弁連の試写会でこの映画を見た感想を書いておられる…

 しかし、どう見ても違う映画を見たとしか思えない。

 Prodigal_Son氏は、上坂氏の「珍解釈」と紹介しておられるが、別の映画を見ておられたと解する方が妥当かと。日弁連の公開試写会の場で、まったく別の映画を見ることの出来る上坂冬子氏の作家としての想像力には脱帽するしかない。

 パンフレットに関して二点不満

戦後責任や、宗教の問題について、ドイツとの比較という論じ方を両者してるのだが問題が多いように思える。戦前ドイツには民主主義があったけど…など。

これほど靖国追及に勢力を注ぎ込んだ映画はない。観るのはつらいが目を背けるわけにはいかない。凄まじい作品である。

…この人も別の作品を見たんではないか?

*1:ただし、この監督(李櫻氏)が、観客に何を訴えかけたいのだろうか、ということ考えさせることを、自己の主張を希薄化することで狙ったとしたならば、それは一定の成功を果たしているといえるだろう。少なくとも私という観客においては。そう考えると、ディスコミュニケーションによるコミュニケーションが成立したとも考えうる。

*2:監督とではなく作品と

*3:正確には「太刀」であり形状的には剣である。

*4:ベルリン国際映画祭フォーラム部門創始者