面白い文章があったので

 社会党について論評するものは多い。マスコミに登場するそれらのほとんどは、社会党に現実的になることを求める。現実的になれとは現状に妥協せよということだ。成功の見込みがない反対や抵抗はやめよと忠告し助言する。なるほどそういう点も配慮する必要はあるだろう。だが現実に妥協していって、戦後民主主義の担い手であり、守り手であることをやめては、社会党の存在意義はない。考えねばならぬのは、社会党が現状妥協的に路線を変えたならば、そうせよという論者と、その論に賛成する読者や一般大衆は社会党に票を投じてくれるのだろうか。
 恐らく“社会党ちゃんお利口になった”と頭をなでてくれるだけで票は投じない。いままで通り自民党か中道諸党に投票するだろう。

『千葉・社会党のあゆみ』日本社会党千葉県本部のあゆみ編纂委員会 1985

 その後の動きを見ると、ここで述べられていることには多分に真実があった。まず、この書の立ち位置を示すと、この書の執筆氏は「協会派」に近い、あるいは同情的な立場と見られる。


 その上で、その後社会党中央の左派が「敵の敵は味方」論から自民党と手を結んでしまったのは歴史の皮肉と言うほかない…。本書は、1985年までの姿を描いているが千葉における左右対立の激しい歴史とあいまって、地方の社会党左派には「中道論者」に対するすさまじいまでの不信感が醸成されていたのではないだろうか。
 千葉では、広島など一部地方のように「新社会党」が組織として残る訳であるが…。


 これは北大の某氏辺りに感想を伺ってみたい。
 政治に関わる者は、自ら政治に関わることで、自分の人生が混乱の渦に叩き込まれることは覚悟の上ではあるだろう。しかし、これは事後的断罪と言われるかもしれないが、中央での離合集散を煽り、そのイデオローグであった人々が、そういうような状況に地方の活動家を追い込んだことの自覚を持っているとは、そしてそういう人々の人生を背負っているという自覚があるとは到底思えないのだが…*1

*1:最近、昔の本を読むたびに某氏に対して怒りを持ってしまう…。イカンとは思うのだが…。