時間がないので簡単にメモ

上記記事に関連
このblogはblog界の僻地に位置しているのでなんですが

 べつにこの問題を(あえて問題と言うが)、問題視している人にとっても南京大虐殺を否定する歴史修正主義者を、言論空間から全面追放せよとは言ってはいないだろう。
もし、このように考えるならばこの範囲においては東浩紀氏と共通認識を持てるはずである。(例えば、ドイツなどではこの手の発言は場合によっては法律上問題となる場合がある。そういう意味で、戦後ドイツでの歴史修正主義は非常に巧妙な道をとったし、とらざるを得なかったとも言える。逆コース・東西分割と並び、戦後ドイツと戦後日本の大きな違いの一つではあるだろう。)


 しかし、この問題を問題視する人の多くは、南京大虐殺者を否定する歴史修正主義者の居る領域は縮減されなければならない(あるいは大きな領域を占めてはならない)とは思っている。そして、現状として彼らの占める言論空間が拡大の方向にあるのではないかという危惧を抱いている。


 そうした状況下で、彼らの存在する領域を縮減し、その影響力を抑えるために必要なことは、これまでの歴史学の蓄積の中から、南京大虐殺を否定する歴史修正主義者の議論を批判することであろう。


 そうした中、『リアルのゆくえ』において、「南京大虐殺があった」と肯定する立場を表明しながら、「南京大虐殺を否定する歴史修正主義者」に対して批判するというスタンスを取りえないということを表明した。そしてそれはなぜだという大塚英志氏の問いかけに対して、「南京虐殺について自分で調査したわけではない」からあるいは不可知論的立場であることを理由にしている。


 この問題についてコメントを求める誰も、東氏に対して歴史学的知見に基づいた、歴史修正主義者に対する鋭い切り替えしなんて求めていまい。彼に、もし南京大虐殺についてのコメントを求めるとしたならば、言論界における批評家としての東氏にコメントを求めているわけだ*1。その上で、彼の今回の論理を敷衍すると歴史研究などの蓄積による修正主義批判は、彼の定義する「言論空間」の中でその蓄積と積み上げてきた価値を希薄化され、修正主義の議論と同列の空間上の領域を争う一主体にまで貶められる。
大塚氏があえてこの問題に、あれだけ突っ込んだのも、東氏の論理が少なくとも現状の「南京大虐殺を巡る言論空間」上で「南京大虐殺を否定する歴史修正主義者」に結果的に与するような議論だったからではなかったか*2
こうした問題はまあ、解釈の問題であるし、大塚氏の追及は翻ってみれば、上記のような解釈を避けるためには、「南京大虐殺を否定する歴史修正主義者」批判をはさむ必要があるのではないかという助言とも見ることは出来るのだが…


 だけれど、その後の対応がなんだか非常に頂けない
少なくとも『リアルのゆくえ』とblogにおいて「つっこまれるだろう」と突っ込みを予想したようなことを書いておいて、案の定批判を受けたら
東工大の授業でその弁明、あるいは反論様の発言
それも加えて批判を受けたら
速記は非公認だし、内容は必ずしも正確でないと述べ
最後には

そもそも、そんなに真実が大事だと思うのならば、そのかたがたは実際にぼくの授業に来て質問したらいいのではないでしょうか。


 まあ、答え義務が有無でいえば、少なくとも大塚氏あるいは、「リアルのゆくえ」叙述範囲内に対する批判しか東氏の応答義務がある部分はない(それにしたって全てではないが)。


 しかし、なんでまたかなりのレベルでクローズドな言論空間といいうる*3東工大の授業において、応答様の発言をしたのであろうか?


 少なくとも、そのような場で応答することは言論人としての責任の果たし方ではあるまい*4
 そうは思ってないゆえに今回、少なくともblog上で応答の一部を示したということなのだろうけど…。


 個人的には雑誌や出版社の編集者が企画して、大塚氏と東氏で『リアルのゆくえ』上で問題になった点についてもう一度明確に議論させればよいのではないかと思う。

*1:明確に区分できるわけではないということは承知の上で

*2:しかも今回のblogではとうとう、実際の現地を見たか、見ないかまで議論参加の要件にするような記述が…。ますます修正主義の議論と親和的な話になる気がするのだが…。

*3:不確かながら速記の流出や講義に参加すれば発言を見ると完全にクルーズドではないわけだが…

*4:講義ノートでも出版すればまた違うのかもしれないが