オートノミーへの高いハードル、あるいはオートノミーという幻想
非常に断片的で文章化されていません…単語の羅列になっております、しかも私のブログ読む人には全然何のことやらわからないかもしれません…申し訳ない
twitterでも書きましたが、私は基本的に喧嘩が嫌いなので、主に自分の備忘と思索の整理のために書いています。
具体と抽象
具体的には6月11日デモに関連して起こったいくつかの事件について取り扱っていますが、上記の理由で抽象的な方に引っ張っています
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オートノミーとはなにか:自主性、自律性
頭がないもの=組織に対する批判
オートノミーで思い出すもの
組織批判の根強さ
(私はこれを既存組織を超える強い組織を作り出せなかったことの裏返しにすぎないと思うが)
日本における社会運動のあれこれ
ネットワーク型組織論
世界レベルでのオートノミーを意識した運動
世界社会フォーラム
→場の提供に徹するという運動方式
(デモについて思い出したのはピースウォーク問題「デモかパレードかピースウォークか」辺りで検索かけるとでてくるのか?公安の話とか…)
http://actio.gr.jp/old_files/editorial/20040505-2.htm
私は上記の話の中での「公安と食事をした側」に非常に批判的
この話ですね…記事読んでいて荒氏亡くなったんだな…と思いだした
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自律的だったのかという疑問?
先着申し込みで登壇の場を自由に開放するなどではなく、主催者に連なる人脈から声をかけた
@ShiraishiM1970氏の批判
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オートノミーな運動はありうるのかという疑問?
運動の参加者に対して、他の潜在的な運動の参加者が批判を行うということ:オートノミーな行動ではないのか?
オートノミーな運動における権力秩序
・自生的秩序(ハイエク)的なものなのか?
・それとも無秩序(あるいはレッセフェール)を想定するのか?
自生的秩序における抑圧
しかし、ある人々を排除するべしという主張に対してオートノミーを主張する立場からそれを批判した訳だから
前提とするオートノミーな状況には何らかの秩序を想定している
オートノミーな運動における自生的秩序の前提かというのは非常に大きな矛盾と考えるが
(個人的には、政治権力関係下において抑圧は常に生じ、それは常に程度問題であると考える。
例えば自生的秩序に類似した秩序関係のポジティブな表現として帰嚮原理(神島二郎
(社労党の林紘義氏が批判しているが…http://www.mcg-j.org/swp_arc/japan/jprome/article/jprm3901.htm
これはちょっと神島の読み方が浅いと思う、神島はそれが過度に抑圧的な面を持つ側面があることも同時に指摘している。)
があり、ネガティブな面としてムラ社会が現れる。)
そうした自覚なしに「オートノミーが…」「オートノミーだ…」と言うことは無責任でしかないという指摘は妥当であると考える。
私は、オートノミーな運動というものに上記の点から懐疑的
それでもオートノミーであるというのであれば相当に主催者が規律権力というものに対して自覚的かつその行使に抑制的でなければなるまい
関連は
http://blog.livedoor.jp/hesalkun/archives/52001148.html
などでしょうか…