失われた民主主義 メンバーシップからマネージメントへ

シーダ・スコッチポル(著) 河田潤一(訳)慶應義塾大学出版会(2007.9)
(原題“Diminished Democracy From Membership to Management in American Civic Life”2003)
http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%B1%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E2%80%95%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%97%E3%81%8B%E3%82%89%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%B8-%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%9D%E3%83%AB/dp/4766414195
「あわせて買いたい」に『ポスト・デモクラシー』(コリン・クラウチ)が入っているのは非常に良いと思う。ただ、アマゾンはないように関係なく同じ小林良彰氏による朝日新聞書評ゆえに関連付けた可能性もある。しかし、両者の問題意識は非常に近い、立脚点も方法論もまったく違うが。

書評

私の感想
第一点:「題」の「メンバーシップ」から「マネージメント」への表現にまず惹かれた。メンバーシップとマネージメントが、対概念かどうかは検討の必要があると思う。ただ、これを見て思い出したのは「リーダーシップ」論の「マネージメントシップ」論への変貌である。この手の「経営学」系のフレーズや単語は個人的に大嫌いなのだが*1、私なりに簡単に定義すると組織内トップだったリーダーが、組織外トップのマネージャーに変わったというものである*2
この点が、私が『ポスト・デモクラシー』と本書が深く関係すると考える点である。『ポスト・デモクラシー』において例にあげられる「フォルツァ・イタリア」はベルルスコーニにとっては権力奪取の道具でしかない。それは本書におけるエキスパートに支配される市民運動も同様のものとみなすことができるのではないか?
これが政治的アントルプルナーシップの帰結だとしたならば皮肉極まりない*3

第二点:パットナムとコミュニタリアニズム、それに対して楽観的な一部「リベラル派」*4両者を「スナップ写真」での判断との批判は、アメリ社会学の泰斗たるスコッチポルだから出来る批判だろうと感心。後者が歴史的知見に欠如しているとの批判はともかく、前者はそして特にコミュニタリアンは歴史的(伝統の重視)の立場からその悲観論を導出している。それに対しての100パーセントの回答と言えるかどうか分からないが、かなりの点で答えうる調査・反論であるのではないだろうか。

第三点:結論をどう評価するか?スコッチポルの批判する論議と対照させるとき明確になると言えなくもないが、パットナムやコミュニタリアン、そして楽観的な「リベラル派」の結論より不明瞭である。前者は伝統的な「小さい」コミュニティの崩壊を明確な危機として警告したのに対して、後者はマネージされたコミュニティをそれに代わるものとして肯定的に評価した。「偉大な自発的結合のタイプを、我々自身の時代のためにふたたび作り上げる方法を見つけなければならないのである。」と閉じられている点は惜しいの一言である。*5

第四点:で、日本でどうするの?という話になるはずである。そういう意味での日本の文脈ってどうなるの?*6

簡単に「感想」なのでいつか修正すると思う。多分する。はず…。だと思う…。

*1:自分で使っておいていまさらだが、社会科学的正確さが欠けている気がする。

*2:リーダーシップにマネージメントシップを含む場合もあるようだが、個人的には明確な別物でないかと考える。いわゆるマネージメントシップに関連する著作では組織は操作物として扱われることが多い。アメリカ型の外部経営者のイメージが強いからであるだろうが、これは組織に対しての責任や帰属意識とも大きく結びつくはずである。

*3:肯定者にとってはそれで良いのか…。皮肉にすらならない…。

*4:日本的定義とは必ずしも一致するものではないことに注意の必要性

*5:ただ、これがもし書かれていたとしても、それは「アメリカ」の文脈で重要で偉大なだけであるわけだが。

*6:これはスコッチポルに対する問いかけでは当然ないです。