コミュニタリアン?

上記で紹介した『リベラル・コミュニタリアン論争』についての書評等がないかと思って探してみたが見当たらず。しかし、その中で非常に気になったことがいくつか。
それは「コミュニタリアニズム」の使用法の問題である。検索をしてみるとかなり誤解がある、あるいは理解されていないのではないかと思う。私も理解しているかといわれると微妙…。だが、敢えてその微妙な立場からなぜ理解されていないのか、あるいは誤解されていると思える理由を考察してみる。(検索結果と私の妄想からからの考察なので存在しない敵を叩いているといわれればその通りだと思います。)

長くなりそうなので簡単にまとめると、コミュニタリアニズム内部の整理をもっと分かりやすくするべきではないかということ。デランティの整理などは比較的分かりやすいかなという気もするが。それと「哲学」「政治」「経済」という軸の未整理と「アメリカ」「ヨーロッパ」「日本」という軸の違いが軽視されているような気もする。

紹介本は本当はその辺りの整理からやるべきではなかったのだろうか?
近年、日本でもコミュニタリアニズムの紹介が進んでおり青木孝平の『コミュニタリアニズムへ-家族・私的所有・国家の社会哲学-』や菊池理夫による『コミュニタリアニズムと「第三の道」』や『日本を甦らせる政治思想 現代コミュニタリアニズム入門』などの紹介も出ており*1コミュニタリアニズムの個別の論者、ウォルツァーやテイラーらの翻訳や研究書も出ている。

ただ誤解の最大点は実は、コミュニタリアニズムの議論に内在するとは思えない点にあるのではないかという点が第一点にくる。それが、同語の訳の問題である。同語はよく「共同体主義」と訳される*2。この訳が想起させる日本の伝統的共同体重視と、コミュニタリアンの哲学的な「リベラル批判」が結合して、コミュニタリアニズム保守主義という使用のされ方をしているのではないかと思う。

長くなりそうなのであとで続きを…
まだ続き書いていない時点でなんですが、知り合いの方、いろいろ指摘して頂ければ幸いです。

*1:個人的には菊池氏のコミュニタリアンの整理は非常に優れていると思うが、新書の『日本を甦らせる〜』で主に展開されるような「町内会」議論や「ゲーテッド・コミュニティ」の擁護などに関しては大きな不満がある。この不満点がある意味この論の中心的な提案に直結する。

*2:ただし、この訳は最近の学術的な訳としてはあまり見られないように思う。ほとんどの研究者は「コミュニタリアニズム」というカタカナでの表記を使用しているのではないか。