『熟議の理由−民主主義の政治理論』

田村哲樹(id:TamuraTetsuki)氏のご著書
勁草書房(2008)2940円
http://www.amazon.co.jp/%E7%86%9F%E8%AD%B0%E3%81%AE%E7%90%86%E7%94%B1%E2%80%95%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%90%86%E8%AB%96-%E7%94%B0%E6%9D%91-%E5%93%B2%E6%A8%B9/dp/4326301740
専門書の中では比較的お手ごろなお値段


書評にしたいと思いましたが、諸事情*1で読書感想文になります…


大変、面白く読めた。
 近年、「形容詞付き」民主主義とでも言うべきものへの注目の高まり(一般にではなく、政治学あるいは社会学においてという但し書きはつくものの)には目を見張るものがある。近刊だけでも大澤真幸の『逆説の民主主義』(角川書店)や森政稔『変貌する民主主義』(筑摩書店)などもそうした「形容詞付き」民主主義の「形容詞」部分を模索する著書であるということが可能であろう。


 本書の「形容詞」は「熟議」である。
 著者は「熟議民主主義」周辺の議論を整理しつつ、主にシャンタル・ムフらを中心にした闘技民主主義とハーバーマス的というべきか合意を最終的帰着に据える討議民主主義双方の問題点を指摘しつつ、ある意味でその折衷を果たそうと試みている。
 その姿勢には大変共感を覚えるし、概ね賛成である。


 だがしかし、微妙な問題としてラディカルさをなくした「闘技民主主義」は、多分に「闘技民主主義」であることを(理論上)維持できないのではないか。同様に、合意できない可能性を留保した「討議民主主義」は、多分に「討議民主主義」として機能可能な参加者を(理論上)集め得ないのではないだろうか。


 「闘技民主主義」は、どのような問題、空間においても妥協余地のない問題、妥協余地の無い立場におかれる人が存在するというラディカルな前提から発するがゆえに「合意」の持つある種の虚偽性を明らかにしたと評価することが出来る。
 「討議民主主義」は、どんなに複雑怪奇な問題も合意可能だから、様々な意見を有する人々が討議に参加することでその意見を反映させよう、あるいは反映させられると考えるから、討議参加者を集めることが出来る。


 双方からある意味でのラディカリズムを剥ぎ取った場合、少なくとも理論面での双方の面白みは失われてしまう気がする。これは著者が述べておられる「理論」と「現実」の間の問題ということであろうが…。
 それでも、少なくとも現実の場でこのような政治が模索される場合には、田村氏の熟議の立場に私は最も共感を持つ。

*1:個人的ハードスケジュール