文化における中心と周縁

 ニューズウィーク日本語版がマイケル・ジャクソン特集を行っていた。印象に残ったのは「キング・オブ・ポップ」としてのマイケル・ジャクソン。最後の「キング・オブ・ポップ」ではないかという論評が添えられていた。
 なぜ最後なのか、それは音楽業界の細分化、あるいは聞き手の細分化があるのだろう…。

 そういう観点からすると、上で指摘されるように「問題のある言論」*1の周縁化は非常に難しくなる。これはあまり極端に言うと某議論での東氏の話と重なるし、私はそこまで多様化と分散が進んでいるとは考えていない。

 ハーバーマスの公共圏の議論もid:furukatu氏のところなどで出ていたが、あれはその後のラディカル・デモクラシーなどの話も絡めないと生産的なものにならないのではないかと思う。


 その上で、上の段で避けた議論に少し踏み入るが。例えば男女差別奨励(黒人差別でも在日差別でも、あるいは部落差別でも)を著名人(著名人でなくてもよい)が行ったならば社会的にどう扱われるか。あるいはどう扱われるべきかという点において多くの人は放置するべしと考えるだろうか。*2
 「多くの人」という言葉遣いも問題を多くはらむが、この場合は政治的な意味合いもこめてあえてこの語をつかう。


 個人的にはリバタリアニズムには到底賛同できない。それは政治的にも、経済的にも、表現的にも強者の主張であると考えるからだ。*3


 いろいろ問題も指摘されるが、なぜ自分がコミュニタリアニズムに親近感を抱くか。
 哲学的にはコミュニティへの帰属が基点となるということに対する共感がまずある。ロールズの想定する原初状態などは、ある種の思考実験だという位置づけは置いておくとしても余りに前提として取り扱いしにくい。これはid:furukatuさんがハーバーマスの理想的発話状態に素朴なレベルで違和感を抱いていたのと近いかもしれない。


 政治的なレベルでは「倫理」あるいは「徳」の保守による占有を危惧するという考え方である。この辺りはマッキンタイア*4などに端を発して、政治的にはエツィオーニあたりに落としどころが生じるのかもしれない*5が、かなりある種の説得力を持っていると思う。
 エツィオーニはアメリカ民主党支持者だが、共和党に圧される民主党に対してという意識があるように思う。


 ただ、上記の2点の意味でいえば「リベラルVSコミュニタリアニズム」としてのコミュニタリアンではなく、リベラルの補完としてのコミュニタリアンという位置づけに自己定義としてはなるかもしれない。


関連

 ここで一つ紹介。アメリカのコミュニタリアン、アミタイ・エツィオーニ(Amitai Etzioni)は、ヘイトスピーチを許さない環境、出来ない雰囲気を作ることを「法的」にではなく作ることを推奨している。その中には、黒人運動の代表者、ジェシー・ジャクソンのユダヤ人に対する差別発言が、現在行えばどのような社会的批判を浴びるかを考えれば分かるというような言い方をしている。ネットなどの比較的自由な言論の場では、見たくない人や意識していない人が見れないような環境づくり(18禁サイトの入場時に年齢確認を求めるようなものか?)の必要性を論じている。

最後の3行は当時と状況が少し変わってきたのかもしれないが…

*1:なにが問題のある言論かという議論は重要だが、やり始めたら永遠に終わらない個別問題の積み重ねなのでこの段では回避

*2:日本ではたいした批判を受けないかもしれないが…

*3:「強者の主張=駄目」というわけではない

*4:そういえば、マッキンタイアの『美徳なき時代』が復刊されたようですね

*5:個人主義でも共同体主義でもなく - Living, Loving, Thinking, Againこのあたりも関係