いろいろつながる・・・

ロナルド・ドーアの『働くということ』
ロバート・パットナムの『孤独なボーリング』
S.N.アイゼンシュタットの『日本比較文明論』
某先輩の「農協論」
そういうものが、私の頭の中で繋がる。*1
私の文脈で言えば、「組織不信」「組合不信」「政党不信」の背景に、偽りの個人主義、偽りの平等主義(この裏返しとしての反平等主義)などがあるのではないかということ。
ロールズでは問題にされている*2が、やはり自らの社会的な位置認識と社会構成に対する認識は重要であろう。
なぜ、自らの社会的位置の認識と社会構成の認識が重要と考えるかというと、「相互扶助」組織としての「組合」*3を維持し、充実させ、機能を充実させるために中核を担うことが期待されるのは、社会構成上の「下流以上、上流未満」であるからである。なぜならば、互助組織でのリスク分散という制度を維持するためには、多くの参加者が「負担者」でありうると同時に「受益者」たりえることが必要だからである。それこそが、他者が不幸な状態に追い込まれた時に、多少自らが負担を負ってでも助け合うという「互助」の精神に繋がる。
そのため、社会の格差拡大、二極化が事実か否かという問題はあるにしても、国民に広くそういうものだと認識されることは、こういった「互助」「組合」運動を精神的な基盤としてのそれを大きく掘り崩す。
私の研究対象の政治に関して問題を捉えるならば、近代「政党」は個々の政治的な発言力が弱い主体が、寄り集まることで強い政治的発言力の確保を目指した「政治的協同組合」としての要素をより強く見出すことが可能(必要)なのではないかということが言えると思う。その上でウェーバーの指摘する「官僚制」の問題、ミヘルスの指摘する「寡頭制の原則」を乗り越える模索が必要になるのであろうがこれはまた別の話。

*1:社会問題全部の底流が何らかの意味で「繋がっている」というのとは別の意味で。

*2:「無知のヴェール」は問題にしているがゆえの概念であろう

*3:労働組合農業協同組合も含めて